311以後、放射能(被ばく)に関連する裁判をいくつかやってきていて、そこでも科学的な問題と紛争解決にとって必要な問題との異同という問題にいつも直面してきました。
というのは被ばくによる健康被害の問題は、科学の問題というより「科学の限界に関する問題」だ、そのような限界の問題に法はどう立ち向かうのか、という問題に本格的に直面してきたからです。
そこでぶつかったひとつの象徴的な問題が、科学的には証明が出来ていない現象(病気など)に対して、その病気の原因として、どう考えても、放射能による被ばくが影響しているのではないかと思わせる、個別の数々の現象が散見できる場合に、そのような現象をどう評価するのか、です。それを科学の枠組みの中に掬い取れないからといって、無視する(つまり存在しないものとして扱う)ことが果たして妥当なのか、という問題です。
つまり、法が救済するのは科学の枠組みの中に掬い取れるケースだけなのか、という問題です。
この夏、養老孟司の本を集中に読みまして、世界を科学の枠組みの中に掬い取れるケースなんてほんの一握りのことでしかない、という確信を新たにしました。
だとしたら、それ以外の大部分の、科学の枠組みの中に掬い取れない真っ暗闇の世界に法の救済の手を差し伸べないとしたら、法っていったい何なんだ?と思うようになりました。
科学が通用する世界のほんの一握りの現象しか救いの手をさしのべない、特権的なシステムが法の姿なのか。そんな法だったら糞食らえと思うようになりました。
そこから、再び、法を科学が通用しない世界にも光を当てるシステムとして再構成する必要性と可能性について、思いを寄せるようになりました。
どうも、唐人の寝言のような話になってしまった‥‥
(続く)
0 件のコメント:
コメントを投稿