1、ブックレット編集で乗り越えたバカの壁
今年初め、日本版のブックレットの企画が持ち上がった時、正直、私は乗り気でなかった。311以来、何度も言って来たことを、今さらくり返しても負け犬の遠吠えにしか思えなかったからです。しかし、共同編集者の小川さんの熱意に押され、いざ始めてみると思っても見ない事態に遭遇しました。311後の未曾有の暗黒の日本社会に風穴を開ける光が見えてきたからです。一言でそれは「人々を敵と味方に仕訳し、味方を増やし敵を追い込み、自分たちの主張に有無を言わせず従わせる」という政治の論理が人々に分断の壁をもたらしている(それがバカの壁)。このバカの壁を乗り越える光が見えてきた。それが「市民運動の脱政治」「政治運動から人権運動へのシフト」、そして「民主主義の永久革命」の民主主義から政治を抜き去った「人権の永久革命」。
そこで、これまでの市民運動、世界史の政治運動を「人権」というメガネで見直したら、全くちがった風に見えることにも気が付いた。そこで、私は人権に市民運動の可能性の中心を見出し、それを具体的に実行する場として日本版の運動があることを見出した。それは過去に経験したことのない新しい市民運動の始まりを告げる可能性を秘めている、そう実感しました。
他方で、日本では人権を知識として頭で理解しているだけで、信念として身体で実感することが人々の間に容易に根付かないという積年の課題があることも承知していました。だから、このブックレットは人権について「認識において悲観主義」で書きました。だが、私たちはその認識にとどまらない。そこから実行として一歩前に踏み出す、「意志において楽観主義」として。ちょうど、今回のブックレット編集という実践で「一寸先は闇」の経験をして、その闇の中から光と出会ったように。
この最初の一歩が今年5月末、調布市でやった日本版の学習会。演題は「原発事故後の社会を生き直す――市民運動の問題は従来の解き方では解けない――」(>その報告)。従来の解き方とは人々を敵と味方に分断する「政治の論理」による解決。これに代わる新たな解き方が人々の共存をめざす「人権の論理」。これが「バカの壁」の向こうに住む一部の市民運動家から猛反発を受けるだろうと覚悟しました。だが、どちらの解き方がよいか、それは実践を通じて明らかにされる。そう思っていたから苦にしなかった。むしろ本当の困難はそこにはなかった。それはごく普通の人々によって提起されたのです。
2、ブックレット編集をしてみてぶつかったもう1つのバカの壁
前述した通り、ブックレットは、これまでの市民運動の中で分断の壁にぶつかった人たちに新たな気づきをもたらしたいと願い書かれた。そして、それについて確かな手ごたえを感じた。だが、市民運動に無縁のごく普通の市民にとっては、そんな問題はどうでもよいことだった。そこで、ブックレットはごく普通の市民に何をもたらすのか。それが新たな本質的な課題として目の前に登場したのです。
この時、私の脳裏に浮かんだのは70年前、その前年に「七人の侍」で絶頂期にあった黒澤明が満を持して世に問うた映画「生きものの記録」が不入りで記録的な大赤字になった時、「人々は太陽を見続けることはできない」とつぶやいた黒澤明のコトバでした。それは普通の人々にとって、放射能(原爆)の現実と向き合うことがいかに困難であるかを語ったコトバだったのです。このバカの壁は70年間ずっと続いている。だから、どうやったらこのバカの壁を乗り越えられるか、その問いも続いています。
この問いに対し、これまで私はずっと、その原因は放射能の「目に見えない、匂いも痛みもない、にもかかわらず、体温を0.0024度しか上げないエネルギーで人に即死させる猛毒」という非人間的、非日常的な特質に由来するものだと考えてきました。けれど翻って思うに、だったら、そんな途方もない非人間的な化け物に対し、70年前に杉並区の主婦たちから始まった水爆実験禁止署名運動のような運動が起きて自然なのに、今日なぜそのような運動が起きないのか。今日では、もはや放射能の非人間的、非日常的な特質だけでは普通の人々がなぜ放射能の現実と向き合おうとしないのか、その説明がつかない。これがブックレットを書き上げたあと私自身が直面したバカの壁でした。
そして、この夏、この壁は、「壁」の著者安部公房と「バカの壁」の著者養老孟司の対談から、二人がライフワークとして格闘する「脳化社会」からその壁の意味を理解する手がかりを与えられました。
それは、「意識と自然との関係」を最も突き詰めたものだった。
図式的に言えば、人間の歴史は、脳(意識)が産み出した人工物(言葉、お金、数字、データ、情報も含む)が世界にあふれ、人工の世界が脳が作ったものでない自然の世界を浸潤していった歴史である。現代とはAIに象徴される通り、人工世界が自然世界に置き換わった意識中心の世界のこと、太古の人類が自然の洞窟の中に住んでいたとしたら現代の我々はいわば脳(意識)の中に住む。養老孟司はこれを脳化社会と呼ぶ。脳化社会は脳が設計した通りに管理統制された社会であり、その反面として、脳の管理統制が及ばない「自然世界」の存在を忌み嫌い、遠ざけ、排除する。その典型が死体・ゴキブリ。その延長線上に、原発事故で外部に放出された放射性物質もある。これもまた人類の手に余る、脳の管理統制が及ばない存在だからです。
人々は原発に対しどのような立場に立とうと、自分が属している脳化社会に安住する限り、この放出された放射性物質がもたらす放射能と向き合うことは困難です。それは脳化社会の掟である「脳の管理統制が及ばない『自然世界』の存在を忌み嫌い、遠ざけ、排除する」と相容れないからです。
これに対し、もし普通の人々が非人間的、非日常的な放射能と向き合う姿勢に転じる時が到来するとしたら、それは彼らが脳化社会に安住して来た自分たちの生き方そのものと向き合うようになった時だと思う。その時とは或る意味で、人類史の根源的なコペルニクス的転回の瞬間です。だから、そんな瞬間は奇跡のように思うかもしれない。けれど、現実は、否応なしに、人々にこのコペルニクス的転回を迫っています。なぜなら、現代は、原発事故ばかりではなく、AIに象徴される通り、人工世界ががん細胞のように自然世界を浸潤し尽くしており、至る所で脳化社会が行き着く先まで煮詰まっていて、脳化社会の反乱前夜だからです。自死、鬱、いじめ、引きこもり、様々なハラスメント現象から、腰痛、アトピー、不眠など様々な健康障害まで、「脳化社会に猛反発、反逆、反動する身体」の深刻な現象が今日、至る所に蜘蛛の巣のように隈なく発生していて、いわゆる自然である生命、身体、健康の側から反逆の叫びが水面下で至る所であがっているからです。
この意味で、脳化社会の極限形態である核が産み出した原発事故、それがもたらした放射能汚染をゴミ屋敷のようにネグレクトする脳化社会に正面から異議申立てをする日本版の取組みは、脳化社会への様々な異議申し立ての市民運動の柱のひとつとして重要な意義を否応なしに帯びることになると思います。
3、ひとまず
ブックレットを書くキッカケになった「市民運動の脱政治」「政治運動から人権運動へのシフト」「人権の永久革命」、それは人権と向き合ったとしても、まだ脳化社会の問題と向き合っていなかった。けれど、人権に向き合った結果、私は初めて脳化社会の問題と向かい合う羽目になった。つまり原発事故の救済において人権を最後まで推し進めるためには、人権だけ取り組んでいたのでは足りず、私たちに脳の管理統制に従うことを求め、私たちから(人権の原点である)自己決定を奪う脳化社会の課題と向き合うほかないことを気づかされた。その意味で、今ようやく、日本版の最終ゴールが何なのかが明瞭に見えてきた気がするのです。
(24.10.15)