2025年2月23日日曜日

【検証11】裁判の「バカの壁」(24.10.5)

311以後、放射能(被ばく)に関連する裁判をいくつかやってきていて、そこでも科学的な問題と紛争解決にとって必要な問題との異同という問題にいつも直面してきました。

というのは被ばくによる健康被害の問題は、科学の問題というより「科学の限界に関する問題」だ、そのような限界の問題に法はどう立ち向かうのか、という問題に本格的に直面してきたからです。
そこでぶつかったひとつの象徴的な問題が、科学的には証明が出来ていない現象(病気など)に対して、その病気の原因として、どう考えても、放射能による被ばくが影響しているのではないかと思わせる、個別の数々の現象が散見できる場合に、そのような現象をどう評価するのか、です。それを科学の枠組みの中に掬い取れないからといって、無視する(つまり存在しないものとして扱う)ことが果たして妥当なのか、という問題です。
つまり、法が救済するのは科学の枠組みの中に掬い取れるケースだけなのか、という問題です。

この夏、養老孟司の本を集中に読みまして、世界を科学の枠組みの中に掬い取れるケースなんてほんの一握りのことでしかない、という確信を新たにしました。
だとしたら、それ以外の大部分の、科学の枠組みの中に掬い取れない真っ暗闇の世界に法の救済の手を差し伸べないとしたら、法っていったい何なんだ?と思うようになりました。
科学が通用する世界のほんの一握りの現象しか救いの手をさしのべない、特権的なシステムが法の姿なのか。そんな法だったら糞食らえと思うようになりました。
そこから、再び、法を科学が通用しない世界にも光を当てるシステムとして再構成する必要性と可能性について、思いを寄せるようになりました。

どうも、唐人の寝言のような話になってしまった‥‥ (続く)
 

2024年10月28日月曜日

【検証10】ブックレットとは何か、ブックレットを書いてみて気づいたこと(24.10.29)

 先週(1021日)、東京地裁で自主避難者の住まいの権利裁判の11回目の裁判でした。前回の期日に、埼玉に避難した原告のお母さんに、次回、裁判官の前での意見陳述をお願いし、了解して貰いました。ところが直前になって「原稿が書けない」と。しばしの意見交換の中で「福島原発事故は一度で済まず二度発生した、一度目は自然(放射能)が人間に起こした天災だったけど、二度目は人間が人間に起こした人災だった」の話に彼女は「そうでした。書いてみます」と。それから一気に素晴らしい原稿を書き上げ、当日、今も続く避難生活の思いを自身の言葉で切々と裁判官に訴えました。

ブックレットもこの方の意見陳述と同じです。原発事故という人間が人間に対して起こした人災について、その悲劇からの救済について書いたものです。なぜなら、福島原発事故を起こしておきながら、日本社会はそれを救済する法律を備えておらず(専門用語で「法の欠缺(穴)」といいます)、そればかりか事故後も法律を制定してその「法の穴」を埋めようともせず、放置しっぱなしにしているからです。
そこで起きたことは「法なき世界」のまま、文科省の20mSv通知がその典型ですが、政府が自由裁量という名のもとで好き放題の政策を取ってきたのです。その結果、被災地の人々、とりわけ子どもたちの命、健康、暮らし、未来という人権が脅かされ、侵害されてきました。
その「法なき世界」の暗黒状態に、市民の手で光となる法(つまりチェルノブイリ法日本版)を導入し、311後のゴミ屋敷の日本社会を人権屋敷に再建しよう、それがブックレットの目的でした。
それは一方で、これまで、救済の「法なき暗黒社会」の中でどこにも行き場がなく、「苦悩という避難場所」に避難していた人に、これを読み「現実の避難場所」を見出して欲しいと思い、他方で、311後の日本社会で普通に生きられると思っている人に、これを読み「頭の中がグジャグジャになって」欲しいと思って書かれたものです。

 ただ、以上のことは日本版の会発足当初から掲げてきたことであり、ブックレット作成にあたっては、そこから「一歩前に出」たいと思い、その試行錯誤の中で思いがけない一歩が見つかりました。
それが「人権の再発見」。敢えて標語風に言えば、それは「市民運動の脱政治」「政治運動から人権運動へのシフト」、そして「民主主義の永久革命」の民主主義から政治を抜き去った「人権の永久革命」。
 これを読んだ日本版の会員の或る人はすぐさまその意図を察知して、地元でやる学習会に次の演題を選びました。「原発事故後の社会を生き直す――市民運動の問題は従来の解き方では解けない――」。従来の解き方とは人々を敵と味方に分断する「政治の論理[1]」による解決。これに代わる新たな解き方が人々の共存をめざす「人権の論理」。
この演題は、ブックレットが、これまでの市民運動の中で分断の壁にぶつかった人たちに新たな気づきをもたらしたいと願い書かれたものを受け止めたものでした。

 ところが、いざ一歩前に出たら、今度はもうひとつの壁が目の前に。
それが、市民運動に無縁のごく普通の市民の壁です。彼らにとって市民運動の分断なんてどうでもよい、だったら、ブックレットはごく普通の市民に何をもたらすのか。それが新たな、そして本質的な課題として目の前に登場したのです。
 この夏中、私はこの課題に釘付けとなり、今もなお霧の中で試行錯誤の最中です。尤も、私なりにその霧を晴らす光が見つかったのですが、東京と埼玉の2つの集会でそれを口にしてみて、私にはまだその光を誰もがすぐ分かるように明快な言葉で説明する力量がないことを自覚しました。

 唐人の寝言みたいな舌足らずでスミマセン、これがこの2つの集会の率直な感想、報告です。
 ただ、私自身の中では、原発事故とは何であったのか、その正体とこれと向き合うために何が必要なのか、今度こそ「もう一歩前に出て」それについて突き詰めて、ひとつの決着をつける積りで、その時には日本版の最終ゴールが何なのかが明瞭に見える筈だとひそかに確信しています。



[1] ただし、これは私が最も優れた把握だと思うカール・シュミットによる「政治の定義」(以下の「政治的なものの概念」)です。シュミットも世に存在する全ての政治をこれで定義できると実証した訳ではありません。


 

2024年10月18日金曜日

【検証9】ブックレットを書いてみて ――バカの壁を越えたら、そこはもう1つのバカの壁だった――(24.10.15)

1、ブックレット編集で乗り越えたバカの壁 

 今年初め、日本版のブックレットの企画が持ち上がった時、正直、私は乗り気でなかった。311以来、何度も言って来たことを、今さらくり返しても負け犬の遠吠えにしか思えなかったからです。しかし、共同編集者の小川さんの熱意に押され、いざ始めてみると思っても見ない事態に遭遇しました。311後の未曾有の暗黒の日本社会に風穴を開ける光が見えてきたからです。一言でそれは「人々を敵と味方に仕訳し、味方を増やし敵を追い込み、自分たちの主張に有無を言わせず従わせる」という政治の論理が人々に分断の壁をもたらしている(それがバカの壁)。このバカの壁を乗り越える光が見えてきた。それが「市民運動の脱政治」「政治運動から人権運動へのシフト」、そして「民主主義の永久革命」の民主主義から政治を抜き去った「人権の永久革命」。
 そこで、これまでの市民運動、世界史の政治運動を「人権」というメガネで見直したら、全くちがった風に見えることにも気が付いた。そこで、私は人権に市民運動の可能性の中心を見出し、それを具体的に実行する場として日本版の運動があることを見出した。それは過去に経験したことのない新しい市民運動の始まりを告げる可能性を秘めている、そう実感しました。
 他方で、日本では人権を知識として頭で理解しているだけで、信念として身体で実感することが人々の間に容易に根付かないという積年の課題があることも承知していました。だから、このブックレットは人権について「認識において悲観主義」で書きました。だが、私たちはその認識にとどまらない。そこから実行として一歩前に踏み出す、「意志において楽観主義」として。ちょうど、今回のブックレット編集という実践で「一寸先は闇」の経験をして、その闇の中から光と出会ったように。

 この最初の一歩が今年5月末、調布市でやった日本版の学習会。演題は「原発事故後の社会を生き直す――市民運動の問題は従来の解き方では解けない――」(>その報告)。従来の解き方とは人々を敵と味方に分断する「政治の論理」による解決。これに代わる新たな解き方が人々の共存をめざす「人権の論理」。これが「バカの壁」の向こうに住む一部の市民運動家から猛反発を受けるだろうと覚悟しました。だが、どちらの解き方がよいか、それは実践を通じて明らかにされる。そう思っていたから苦にしなかった。むしろ本当の困難はそこにはなかった。それはごく普通の人々によって提起されたのです。

2、ブックレット編集をしてみてぶつかったもう1つのバカの壁

 前述した通り、ブックレットは、これまでの市民運動の中で分断の壁にぶつかった人たちに新たな気づきをもたらしたいと願い書かれた。そして、それについて確かな手ごたえを感じた。だが、市民運動に無縁のごく普通の市民にとっては、そんな問題はどうでもよいことだった。そこで、ブックレットはごく普通の市民に何をもたらすのか。それが新たな本質的な課題として目の前に登場したのです。

 この時、私の脳裏に浮かんだのは70年前、その前年に「七人の侍」で絶頂期にあった黒澤明が満を持して世に問うた映画「生きものの記録」が不入りで記録的な大赤字になった時、「人々は太陽を見続けることはできない」とつぶやいた黒澤明のコトバでした。それは普通の人々にとって、放射能(原爆)の現実と向き合うことがいかに困難であるかを語ったコトバだったのです。このバカの壁は70年間ずっと続いている。だから、どうやったらこのバカの壁を乗り越えられるか、その問いも続いています。

この問いに対し、これまで私はずっと、その原因は放射能の「目に見えない、匂いも痛みもない、にもかかわらず、体温を0.0024度しか上げないエネルギーで人に即死させる猛毒」という非人間的、非日常的な特質に由来するものだと考えてきました。けれど翻って思うに、だったら、そんな途方もない非人間的な化け物に対し、70年前に杉並区の主婦たちから始まった水爆実験禁止署名運動のような運動が起きて自然なのに、今日なぜそのような運動が起きないのか。今日では、もはや放射能の非人間的、非日常的な特質だけでは普通の人々がなぜ放射能の現実と向き合おうとしないのか、その説明がつかない。これがブックレットを書き上げたあと私自身が直面したバカの壁でした。

そして、この夏、この壁は、「壁」の著者安部公房と「バカの壁」の著者養老孟司の対談[1]から、二人がライフワークとして格闘する「脳化社会」からその壁の意味を理解する手がかりを与えられました。

それは、「意識と自然との関係」を最も突き詰めたものだった。
図式的に言えば、人間の歴史は、脳(意識)が産み出した人工物(言葉、お金、数字、データ、情報も含む)が世界にあふれ、人工の世界が脳が作ったものでない自然の世界を浸潤していった歴史である。現代とはAIに象徴される通り、人工世界が自然世界に置き換わった意識中心の世界のこと、太古の人類が自然の洞窟の中に住んでいたとしたら現代の我々はいわば脳(意識)の中に住む。養老孟司はこれを脳化社会と呼ぶ。脳化社会は脳が設計した通りに管理統制された社会であり、その反面として、脳の管理統制が及ばない「自然世界」の存在を忌み嫌い、遠ざけ、排除する。その典型が死体・ゴキブリ。その延長線上に、原発事故で外部に放出された放射性物質もある。これもまた人類の手に余る、脳の管理統制が及ばない存在だからです。

人々は原発に対しどのような立場に立とうと、自分が属している脳化社会に安住する限り、この放出された放射性物質がもたらす放射能と向き合うことは困難です。それは脳化社会の掟である「脳の管理統制が及ばない『自然世界』の存在を忌み嫌い、遠ざけ、排除する」と相容れないからです。

これに対し、もし普通の人々が非人間的、非日常的な放射能と向き合う姿勢に転じる時が到来するとしたら、それは彼らが脳化社会に安住して来た自分たちの生き方そのものと向き合うようになった時だと思う。その時とは或る意味で、人類史の根源的なコペルニクス的転回の瞬間です。だから、そんな瞬間は奇跡のように思うかもしれない。けれど、現実は、否応なしに、人々にこのコペルニクス的転回を迫っています。なぜなら、現代は、原発事故ばかりではなく、AIに象徴される通り、人工世界ががん細胞のように自然世界を浸潤し尽くしており、至る所で脳化社会が行き着く先まで煮詰まっていて、脳化社会の反乱前夜だからです。自死、鬱、いじめ、引きこもり、様々なハラスメント現象から、腰痛、アトピー、不眠など様々な健康障害まで、「脳化社会に猛反発、反逆、反動する身体」の深刻な現象が今日、至る所に蜘蛛の巣のように隈なく発生していて、いわゆる自然である生命、身体、健康の側から反逆の叫びが水面下で至る所であがっているからです。

この意味で、脳化社会の極限形態である核が産み出した原発事故、それがもたらした放射能汚染をゴミ屋敷のようにネグレクトする脳化社会に正面から異議申立てをする日本版の取組みは、脳化社会への様々な異議申し立ての市民運動の柱のひとつとして重要な意義を否応なしに帯びることになると思います。

 

3、ひとまず

 ブックレットを書くキッカケになった「市民運動の脱政治」「政治運動から人権運動へのシフト」「人権の永久革命」、それは人権と向き合ったとしても、まだ脳化社会の問題と向き合っていなかった。けれど、人権に向き合った結果、私は初めて脳化社会の問題と向かい合う羽目になった。つまり原発事故の救済において人権を最後まで推し進めるためには、人権だけ取り組んでいたのでは足りず、私たちに脳の管理統制に従うことを求め、私たちから(人権の原点である)自己決定を奪う脳化社会の課題と向き合うほかないことを気づかされた。その意味で、今ようやく、日本版の最終ゴールが何なのかが明瞭に見えてきた気がするのです。

24.10.15



[1] https://www.youtube.com/watch?v=NOAiCyOCX1Q&t=164s

2024年9月28日土曜日

【検証8】「環境基準」「学校環境衛生基準」について環境省・文科省との意見交換の感想(2)(24.9.28)

以下は、一昨日の省庁意見交換の2つ目、文科省との意見交換の感想。

           (原村政樹さんのfacebookより)

こちらも私自身が全く準備できておらず、文科省の担当者の説明を聞いて、頭の中がもっとグジャグシャになりました。
以下、そのグジャグジャの中から見えてきた、311後の文科省の戦略についての私見です。
一言でいって、それは、
文科省は、放射性物質は「学校環境衛生基準」の適用外(つまり「法の欠缺」状態)を言い訳にして311後の学校の安全確保の課題から真っ先に逃げ出した。

子ども脱被ばく裁判の準備書面(32)(PDF>こちら)を読んで以来、私の頭の中の構造は、
環境基本法の「環境基準」&「規制基準」は、学校環境衛生基準と一心同体に繋がっている、とその連続性を大前提にしていました(その詳細は以下を参照)。

【113話】自由研究(2):311後の独裁国家体制にとって一番ありがたいのは人々が「法の穴(欠缺)」を見つけないこと(2023.8.11)

【115話】自由研究(4):311後の日本社会の人権侵害のすべては「7千倍の学校環境衛生基準問題」の中に詰め込まれている(2023.8.11)

【第134話】いかにして「欠缺の補充」を実行するかは福島関連裁判だけの主題ではない、選択的夫婦別姓など現代の最先端の裁判の主題である(24.3.9) 

ところが、この日の文科省の役人の一言で、私の頭の中はグジャグジャになりました。担当者は、さらっと(というより私からみて、抜けぬけと)こう言ってのけたのです。
学校環境衛生基準はあくまでも「学校に固有の環境衛生に係る事項」だと。
つまり、
環境基本法の「環境基準」&「規制基準」と、学校環境衛生基準とは別物、無関係だ、
とその連続性を大前提にすると表明したからです。
その結果、環境基本法が2012年6月に改正され、放射性物質がその規制対象に取り込まれたからといって、それはおれたち文科省の管轄する学校環境衛生基準には屁でもない、かすりともしない、と。
このふてぶてしいまでの自信に満ちた表明に、一見、唖然としましたが、しかし、ひとたび、眼を現実に転じれば、福島原発事故によって福島県内の学校は深刻な放射能汚染に見舞われることになったのが紛れもない現実であり、その現実から提起された課題、つまり福島県内の学校の安全をどのようにして確保するのかという現実の課題、その解決は上記のロジックによっては何一つ解決されていないのです。
      ↑
この点は、さすがにバカではない文科省も分かっていて、放射能汚染の問題は、「学校を取り巻く地域の安全基準」によってカバーするとか何とか言って、お茶を濁そうとしましたが、こここそ、彼らの最大の弱点があると思いました。
なぜなら、「学校を取り巻く地域の安全基準」って、そもそも何を指すのか?それって、結局、2012年6月以降は、放射性物質を規制対象に取り込んだ環境基本法の「環境基準」&「規制基準」でしょう。
それで、すぐ前に解説した環境省の役人の解説によれば、2012年6月改正以降も環境基本法の「環境基準」&「規制基準」は改正前と変わらない。つまり、原発事故などにより拡散された放射性物質に対する防止措置については、環境基本法の「環境基準」&「規制基準」の適用はない、つまりずっと「法の欠缺」状態のままだと。
      ↑
このロジックを前提としたら、福島原発事故によって発生した福島県内の学校の放射能汚染の問題は、「学校を取り巻く地域の安全基準」によって何一つカバーされていない。
      ↓
そこで、ここでの真の問題が提起される。
環境省の見解では、福島原発事故によって発生した福島県内の学校の放射能汚染の問題は、「学校を取り巻く地域の安全基準」によって何一つカバーされない場合、つまり福島県内の学校の放射能汚染の問題が「法の欠缺」状態のまま放置されているとき、文科省はそれはオレの管轄、責任じゃないとしてそのまま放置してそんなことが(単に道義的にではなく、法的にも)許されるのか?
      ↑
この問題は学校保健安全法がどのように定めているかどうか、というレベルの問題ではありません。なぜなら、311前に制定された学校保健安全法もまた日本には原発事故は起きない、少なくとも学校が原発事故により大気中に拡散した放射性物質により深刻な汚染は発生しないという安全神話を前提にして作られているからです。つまり、原発事故に伴う学校の安全の確保という問題は学校保健安全法が予定・想定していない「法の欠缺」に属する問題だからです。
従って、ここでの問題とは放射性物質に関する学校の安全基準について、「法の欠缺」をどう穴埋めして、その穴埋めに従って行政の政策をどう決定するかという問題です。 
      ↑
その基本的な方針を示したのが、【検証6】で示したケルゼンの序列論=法段階説による、法の欠缺が発生している当該法律の上位規範に着目して「当該法律は上位規範(憲法及び条約とりわけ国際人権法)に適合するようにその欠缺が補充される必要がある」という方法で補充を実行することです。
      ↑
この「欠缺の補充」について有名なコトバが、1981年の大阪国際空港公害訴訟最高裁判決の団藤重光裁判官の次の少数意見です。

本件のような大規模の公害訴訟には、在来の実体法ないし訴訟法の解釈運用によっては解決することの困難な多くの新しい問題が含まれている。新しい酒は新しい革袋に盛られなければならない。本来ならば、それは新しい立法的措置に待つべきものが多々あるであろう。

しかし、諸事情によりその立法的措置が果たされない場合には、その時こそ裁判所の出番であると次の通り締めくくりました。

法は生き物であり、社会の発展に応じて、展開して行くべき性質のものである。法が社会的適応性を失つたときは、死物と化する。法につねに活力を与えて行くのは、裁判所の使命でなければならない。」(33~34頁)
       ↑
ただし、この理はひとり司法だけに妥当するものではありません。「諸事情によりその立法的措置が果たされない場合」、行政府にも欠缺の穴埋めをして必要な行政措置を決定・実行する責任が発生する場合があります。
その端的な事例が、福島原発事故の直後の福島県内の小中学校の集団避難。この集団避難は、これを裏付ける国の法律もなければ(=法の欠缺)、国会にそれを制定する(=欠缺の補充)時間的余裕もなかった。しかし、行政(文科省)は、これに対して、子どもたちに「安全な環境で教育を受ける権利」を保障するために、行政自らが「欠缺の補充」を行い、それに基づいて集団避難の措置を決定し、実行すべきであった。福島県内の小中学校の集団避難はまさに、行政による法の欠缺の補充が最も切実に求められた事例でした。
       ↑
この意味でいうと、2011年4月19日の文科省の20mSv通知の発出は、第1に、発出それ自体が違法、違憲なのではなく、「法の欠缺」状態にある場合、その「欠缺の補充」をして政策決定することが許容される場合があることです。
しかし、第2に、文科省はその発出のやり方において重大な誤りをおかしました。なぜなら、文科省は「欠缺の補充」の本来のやり方=憲法及び条約とりわけ国際人権法に適合するようにその欠缺が補充される必要がある」という方法を実行せず(もしこれをきちんと実行したなら、集団避難の実行にも言及せざるをえなかった)、民間の団体でしかないICRPの勧告に適合するように欠缺を補充するという重大な誤りをおかしたからです。のみならず、内容的にも、ICRPの勧告には国際人権法の観点が欠如し、平常時でもなく、受忍すべきなんらのベネフィット(利益)もない事故時においても、なお被ばく者にリスク(我慢)を強いるという人権侵害を是認する勧告です。
       ↑
以上をまとめると、

文科省は、311直後に、放射性物質について「法の欠缺」状態にある福島県内の学校の安全基準について、「法の欠缺」状態を放置せずに、20mSv通知を発出するという「欠缺の補充」を踏まえた措置を取ったのだから、今後も、「法の欠缺」状態に放置せずに、ただしその時おかした「欠缺の補充」のやり方を間違えるという重大な誤りをきっぱりと正して、放射性物質に関する学校の安全環境衛生基準について、正しい「欠缺の補充」を踏まえた措置を取るべきなのです。   

【検証7】「環境基準」「学校環境衛生基準」について環境省・文科省との意見交換の感想(1)の続き(24.9.28)

【検証6】に書いたコメントの表題
1、解釈変更による法改正の無効化
つまり(環境基本法の)解釈変更による(2012年6月の環境基本)法改正の無効化

 この意味について、以下に追記します。 

 **********************

 環境基本法の2012年6月改正のあと、政府は途方にくれ、その挙句、次のアクロバット的な新解釈に出ることを決断した。それが、 【検証6】で指摘した、
環境基本法に定める「環境基準」&「規制基準」とは、事業者の「通常の事業活動に伴って発生する」公害原因物質に関する基準であって、福島原発事故のような「事故に伴って発生する」公害原因物質は含まない。つまり、戦争を侵略戦争と自衛戦争に区分した憲法9条の政府解釈と同様、「公害原因物質の発生」を「通常の事業活動に伴って発生する」場合と、「事故などそれ以外の場合で発生する」場合とに区分し、環境基本法で定める「環境基準」&「規制基準」が適用されるのは前者だけだと。
 
これで、福島原発事故によって発生した放射性物質を環境基本法に定める「環境基準」&「規制基準」が適用されるという問題はめでたく回避できた。

だが、問題はそれだけでは済まなかった。上記のアクロバット解釈によっても、放射性物質が「通常の事業活動に伴って発生する」場合にはなお環境基本法に定める「環境基準」&「規制基準」が適用されるという問題が残ったから。
この問題をどう解決するか。ここでも政府はおそらく散々思案した末、またしてもすっとぼける次のアクロバット解釈に出ることを決断した。
結論は、この場合も「放射性物質について環境基準を設定する必要性はない」。
その理由は「放射性物質については、炉規法、障防法等の規制法令により、施設周辺の住民の中で最も高い線量を受けると想定される者であっても被ばく線量が線量限度を超えないことを確保するとするICRP勧告の考え方に則った平常時の発生源管理が行われている」から。
        ↑
この禅問答のような意味不明な文言にこそ彼らの苦悩が浮き彫りにされている。なぜなら、ここで言っているのは、ぶっちゃけ言えば、事業者が平常通り、ちゃんと管理しているから、わざわざ基準を定める必要なんかない、ということだから。
        ↑
これは法の自己否定そのものの表明です。それが通用するんなら、人は平常、人殺しなんかしないでちゃんと生活を営んでいるから、わざわざ殺人罪なんていう規範を定める必要なんかない、人は平常、強盗なんかしないでちゃんと生活を営んでいるから、わざわざ強盗罪なんていう規範を定める必要なんかないことになる。
しかし、現実の法規範は殺人罪も強盗罪もちゃんと明記している。そもそも人が平常、まずやりそうもない内乱ですら、万が一のことをおもんばかって、内乱罪の規定すら明記している。
そもそも、放射性物質以外の公害有害物質について、事業者が平常通り、ちゃんと管理しているから「環境基準」&「規制基準」を定めないでいいなんてゆうちょな態度をとっていない。それで済むなら、1960年代の深刻な公害ニッポンにはならなかった。それに対する猛省を経て、事業者が平常通り、ちゃんと管理しているという前提で、なおかつ事業者に守らせる「環境基準」&「規制基準」を定めた。
だったら、なんで放射性物質に限り、そのような法の大原則に対する例外扱いするのか。その合理的な説明がどこにも何もない。

ともあれ、その結果、政府は、環境基本法の次の素晴らしい新解釈に基づき、放射性物質を環境基本法の対象とする2012年6月改正はなかったことにまんまと成功した。

1、「公害原因物質の発生」を「通常の事業活動に伴って発生する」場合と、「事故などそれ以外の場合で発生する」場合とに区分し、環境基本法で定める「環境基準」&「規制基準」が適用されるのは前者だけだ。
2、その結果、後者の、
福島原発事故によって発生した放射性物質を環境基本法に定める「環境基準」&「規制基準」が適用されない。
3、他方、前者の、
放射性物質が「通常の事業活動に伴って発生する」場合にも、従来の規制法令(炉規法、障防法等)によって、ICRP勧告の考え方に則った平常時の発生源管理が行われている」から、それ以上、「環境基準」&「規制基準」を定める必要はない、と。

以上の、環境基本法の新解釈によって、放射性物質に対する市民の安全確保は、311前の放射能安全神話に眠っていた(2012年6月改正以前の)環境基本法によってふたたび運用されることとなった。
これが表題の
311後の政府の作戦は「環境基本法の解釈変更により2012年6月改正はなかったことにすること」だった
の意味です。

これは、福島原発事故でゴミ屋敷であることが判明した311前の法体系に戻ることを表明した、前面開き直りの、かつセルフネグレクト(自己放棄)の態度です。311後の日本社会がゴミ屋敷になったことをまざまざと実感した瞬間でした。
そして、目の前に座った、まだ子育て世代である政府の役人に向かって、思わず、「あんた、ホント、このゴミ屋敷のままでいいと思ってるの?」と問いかけたい衝動に駆られました。

 

【検証6】「環境基準」「学校環境衛生基準」について環境省・文科省との意見交換の感想(1)(24.9.28)

 2024年9月26日、子ども脱被ばく裁判の会(原告団・弁護団・支援者)の申し入れにより、環境省・文科省との間で、放射性物質に関する環境基本法の「環境基準」、学校保健安全法の「学校環境衛生基準」について意見交換の場を持ちました。子ども脱被ばく裁判の会から提出した質問項目は>こちら。

        
以下は、そこに参加した私の感想。その1は放射性物質に関する「環境基準」について、環境省との意見交換について。

それは一言でいって、彼らにとって不都合な真実を隠蔽するために、魔法使いのようなアクロバット的解釈の採用とそれでもなお隠し通せず明るみになった「ゴミの発生」。それがほかならぬ「法の欠缺」。
すなわちどんなにテクニックを駆使し、どうあがいたところで隠し通すことが出来ず、最後までつきまとうことになる問題、それが(放射能と同じく、私たちの目には見えない)「法の欠缺」という問題。それは、「法の欠缺」こそ311以後の日本社会の最大の法律問題だということです。

  ********************************

昨日の最高裁アクションと省庁意見交換、お疲れ様でした。
省庁意見交換は私にとって今回が初体験だったのに、私自身全く準備できておらず、昨日、交換会の場で話した通り、環境省の担当者の説明を聞いて、頭の中がグジャグシャになりました。
以下、そのグジャグジャの中から見えてきた、311後の日本政府の戦略についての私見です。

2017年に井戸さんが書いた、子ども脱被ばく裁判の準備書面(32)(PDF>こちら)のポイントの1つが、
311前までは、放射性物質は公害原因物質でありながら、環境基本法の規制対象ではなかった。しかし、福島原発事故を受けて、2012年6月に、環境基本法が改正され、「放射性物質による大気の汚染、水質の汚濁及び土壌の汚染の防止のための措置について、(環境基本法ではなく)原子力基本法その他の関係法律で定める」としていた除外規定(13条)が削除された。従って、国は、速やかに放射性物質についても環境基本法に従って「環境基準」と「規制基準」を定めなければならない。よって、これをサボタージュする国は法的義務違反である、と。
     ↑
しかし、昨日、環境省の役人の言い分は、
環境基本法で定める「環境基準」&「規制基準」とは、事業者の「通常の事業活動に伴って発生する」公害原因物質に関する基準であって、2012年6月の環境基本法の改正によっても、その点は変わらない。
従って、福島原発事故に伴って発生した放射性物質については、環境基本法の「環境基準」&「規制基準」は適用されない。この意味で、国はサボタージュしていない、と。
     ↑
これに対し、私が昨日、質問したスタンスは、
そもそも311までの原子力基本法その他の関係法律において定める、放射性物質に対する「その防止のための措置」は、環境基本法における公害原因物質に対する「環境基準」&「規制基準」と比べ、極めて不十分なものであった。
311福島原発事故を受けて、上記の極めて不十分な法的措置に対する猛省から、放射性物質に対する防止措置を改めるために2012年6月、環境基本法を改正したはず。つまり、福島原発事故により原発から拡散された大量の放射性物質に対しても環境基本法の基準で防止措置を取ることにしたはず。
そしたら、あとになってから、2012年6月の環境基本法の改正は、事故による発生は前提にしていない、通常の事業活動だけに限定したものだ、と(新)解釈が打ち出された。だったら、我々が願っている福島原発事故により原発から拡散された大量の放射性物質に対する防止措置はどうなったんだ?
でした。
     ↑
そしたら、環境省の役人は
正直に、福島原発事故により拡散された放射性物質に対する防止措置に環境基本法の「環境基準」&「規制基準」は適用されないことを認めた。その上で、
原発事故により拡散された放射性物質については、ICRPの勧告を参考にしながら適切に対応する旨答弁しました。
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ここは決定的な回答でして、環境省の回答を私は次のように理解しました。
1、環境基本法に対する環境省の解釈は、まず、福島原発事故に限らず、およそ「通常の事業活動に伴って発生する」場合以外の原因(事故など)により拡散された放射性物質に対する防止措置については2012年6月の環境基本法の改正前はもちろん改正後も依然「法の欠缺」状態のままである。
2、一般に「法の欠缺」の事態に対して「欠缺の補充」(通常は立法的解決)が求められるが、本件で、1の「法の欠缺」に対する対策として、環境省は、民主主義の大原則である、欠缺の補充は立法府が可及的速やかに解決すべきである(なぜなら、さもなければ、行政府は、行政法の基本原則である法治主義=「法律による行政の大原則」が実行できない)とは考えず、
3、1の「法の欠缺」に対しては、環境省は、自分たち行政府が自由裁量を駆使して、例えばICRPの勧告などを参照して適切な措置を下せば足りると微塵も疑わずに考えていて、言い換えれば、法律にしたがって行政を実行する必要なぞ全くないと考えていて、はからずも法治主義の無視、逸脱を平然と表明している。
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これについて、私から次の2つのコメント。
1、解釈変更による法改正の無効化(←この意味については、次の【検証7】を参照)
環境省のこの法的テクニックのやり方を聞いていて、こいつは憲法9条の解釈変更による改憲(憲法改正)と手口が同じだな、と思いました。前例主義が建前の政府の手口はだいたいいつも同じになる(ましてや成功体験なら一層そうだ)。
憲法9条1項で、戦争の放棄を宣言し、2項で戦力はこれを保持しない、と定めています。
現憲法を制定したとき、多くの人たちは第二次大戦の戦禍に対する猛省から、二度と戦争はゴメンだ、戦争のための戦力は持たないと決意し、それが9条に刻まれたはずです。
しかし、朝鮮戦争を機に警察予備隊が創設され、それが発展して自衛隊が作られていく中で、新たな解釈が生まれました。それが、
9条1項で放棄したのはあくまでも侵略戦争であって、自衛のための戦争までは放棄していない。だから、自衛のための軍隊(戦力)は9条2項の「戦力」に該当しない、
と。つまり戦争を「侵略戦争」と「自衛戦争」に区分して、9条が適用されるのは「侵略戦争」だけだと。
このロジックが今回の環境省の解釈にそのまま再現されています。つまり、「公害原因物質の発生」を「通常の事業活動に伴って発生する」場合と、事故などそれ以外の場合で発生する」場合とに区分し、環境基本法で定める「環境基準」&「規制基準」が適用されるのは前者だけだと。この2つの解釈のロジックは子どもだましみたいに瓜二つです。
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前者の子どもだましに対しては、憲法学者の宮沢俊義がこう論破しています。
--もし憲法が、自衛戦争をなお容認しているのであれば、少なくとも戦争宣言の手続、法律で戦争を行うのか、国会の承認によって内閣が行うのか、それとも国民投票で決めるのかなどくらいは規定されていてしかるべきである。また、自衛戦争が是認されればそのための軍隊も是認されるから、義勇兵制とか徴兵制とかに関する規定があってしかるべきである。そういった戦争に関する規定が今の憲法にはいっさい欠けていることは、この憲法が自衛戦争というものも容認していないことを強く裏付けるものである。
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これと同様に、311前の環境基本法についても同様のことが言えるはずです。
ーーそもそも環境基本法は事業者を守る法律ではなく、国民の命、健康を守る法律であって、国民にとっては、国民の命、健康を脅かす公害原因物質が問題なのであって、その発生原因が事業者の「通常の事業活動」であろうが「事故」であろうと関係ない。
そのような立法目的に照らせば、もし環境基本法の「環境基準」&「規制基準」が平時の場合に限定したものだとすれば、例えば公害原因物質を取り扱う工場の爆発事故・火災などの事故が発生した場合の対策について、そのような爆発事故・火災は容易に想定できる出来事であるから、そのような事態に対する「環境基準」&「規制基準」のあり方について少なくとも最低限の基本的指針は定めるはずである。しかし、環境基本法には「事故」における対策の規定はなにもない。ということは、環境基本法は平時と事故を区別せずに公害原因物質の規制をしていると解釈すべきである。

2、「法の欠缺」状態に対する「欠缺の補充」についても間違いをおかしている
仮に百歩譲って、環境省の解釈を前提にしても、つまり、
「通常の事業活動に伴って発生する」場合以外の原因(事故など)により拡散された放射性物質に対する防止措置について2012年6月の環境基本法の改正後も依然「法の欠缺」状態のままだとしても、この場合に行政府が「欠缺の補充」をして政策決定を下す場合に、その「欠缺の補充」のやり方を完全に間違えている。
では、何が「欠缺の補充」の正しいやり方であるか。これについては、実定法の規定がないが、理論的には、「欠缺の補充」とは或る意味で、当該「法の欠缺」部分を制定することと解することができることから、制定行為とは何かについて最も明快な理論であるケルゼンの序列論=法段階説により、次のように説明することができる。
もともと行政府が制定する政令が法規範として承認されるのはなに故であるか。それは当該政令が上級の法規範である法律に基いて制定されたからであり、それゆえ当該上級規範に適合すると認められるからである。では、当該上級規範の法律が法規範として承認されるのはなに故であるか。それは当該上級規範である法律がさらに上級の法規範である憲法に基いて制定されたからであり、それゆえ当該上級規範の憲法に適合すると認められるからである。
そうだとしたら、もし特定の紛争事実に対して、適用すべき法律が具体的な判断基準を直接示すことができない、いわゆる「法の欠缺の補充」に当たっても、制定行為と同様に、当該法律を法規範たらしめている根拠である上位規範に立ち帰って、当該「法の欠缺」部分を当該上位規範に基づいて、なおかつこれに適合するように具体的な補充をするのが、法の段階構造に立つ現行法の態度として最も適切なものと思われるからである。
つまり、法の欠缺が発生している当該法律の上位規範に着目して、「当該法律は上位規範に適合するように解釈される必要がある」(上位規範適合解釈)という法の基本原理を応用し、「当該法律は上位規範(憲法及び条約とりわけ国際人権法)に適合するようにその欠缺が補充される必要がある」という方法で補充を実行することである。
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しかし、環境省がやったのは、この「上位規範(憲法及び条約とりわけ国際人権法)に適合するようにその欠缺を補充」ではなく、「民間の一団体でしかないICRPの勧告に適合するようにその欠缺を補充」したものであり、それは上位規範適合解釈という法の基本原理を応用した「欠缺の補充」のやり方に照らし、裁量権の明らかな逸脱・濫用と言わざるを得ない。
 

2024年9月12日木曜日

【検証その5】ブックレットの「バカの壁」を突破する試み(その2)(24.9.8)

 2024年8月31日、東京でやったブックレットの「バカの壁」を突破する試み第1回目(動画などの報告は>こちら)に続いて、9月8日、水戸喜世子さんの呼びかけで大阪高槻市で、ブックレットの「バカの壁」を突破する試み第2回目をやらせてもらう機会を与えられた。
当初、5名ほどの内輪の集まりと理解して出かけていったところ、会場には56名も人が来ていて、ひゃあ!!どうしよう?? 
急遽、プロジェクターなど取り出して写してみたものの、後の祭り。
しかし、会場の皆さん、ものすごく熱心な参加で、第二部の交流会にも半分近くの人が参加。関西は日本の温暖化の震源地かと思わずにはいれないほどの熱気に打たれた一日だった。
動画がないので、備忘録用メモと写真で穴埋め、ゴメン。

                 by  Wild Side さん

              by 水戸喜世子さん
備忘録用のメモ >全文PDF




【検証11】裁判の「バカの壁」(24.10.5)

311以後、放射能(被ばく)に関連する裁判をいくつかやってきていて、そこでも科学的な問題と紛争解決にとって必要な問題との異同という問題にいつも直面してきました。 というのは被ばくによる健康被害の問題は、科学の問題というより「科学の限界に関する問題」だ、そのような限界の問題に法はど...