2024年9月12日木曜日

【検証その5】ブックレットの「バカの壁」を突破する試み(その2)(24.9.8)

 2024年8月31日、東京でやったブックレットの「バカの壁」を突破する試み第1回目(動画などの報告は>こちら)に続いて、9月8日、水戸喜世子さんの呼びかけで大阪高槻市で、ブックレットの「バカの壁」を突破する試み第2回目をやらせてもらう機会を与えられた。
当初、5名ほどの内輪の集まりと理解して出かけていったところ、会場には56名も人が来ていて、ひゃあ!!どうしよう?? 
急遽、プロジェクターなど取り出して写してみたものの、後の祭り。
しかし、会場の皆さん、ものすごく熱心な参加で、第二部の交流会にも半分近くの人が参加。関西は日本の温暖化の震源地かと思わずにはいれないほどの熱気に打たれた一日だった。
動画がないので、備忘録用メモと写真で穴埋め、ゴメン。

                 by  Wild Side さん

              by 水戸喜世子さん
備忘録用のメモ >全文PDF




2024年8月27日火曜日

【検証その4】「チェルノブイリ法日本版が存在する意義」とかけて、なんと解くーーその心は、社会の分断に橋を掛ける挑戦、にある(24.8.27)

 チェルノブイリ法日本版が存在する意義があるしたら、それはどこにあるのだろうかーー社会の分断に橋を掛ける挑戦にあると思う。

かつて、作家の安部公房は日本の未来社会を思って、こう感じたというーーこの風景の中に自分がどこにいるだろうか?ここに自分がいる場所があるだろうか?ないんじゃないか、と(チェルノブイリ事故の翌年の1987年の安部公房と養老孟司の以下の対談動画)。
言い換えれば、人口的な都市文明・都市社会を象徴する高層建築と高速道路に対し、こう感じたーーこれ自体は(人間が生きることにとって)全部手段であって目的じゃない。その手段がここまで来たとき、(その手段が実現しようとする)目的の部分に自分はいない。そのことがとても怖い、と。
その上で、彼は日本の社会に発生している分断の亀裂(そのひとつが「目的と手段の分断」)を覗き込み、その分断に橋をかける試みに挑戦した。

 

今、 チェルノブイリ法日本版が存在する意義があるしたら、それは安部公房がやったこと=日本社会の分断に橋をかける試みに再挑戦することにある。
つまり、人口的な都市文明・都市社会の論理を推し進めて行った究極の姿が原爆と原発を産み出した核社会。その核社会の成れの果てが原爆投下と原発事故。
しかし、考えてみれば、これらの産物はしょせん、私たちの命と健康という「生きる目的」にとって、全部「手段」でしかない。その「手段」がここまで暴走し、化け物に姿を変えていったとき、その「手段」によって実現される私たちの「生きる目的」とはどんなものになるのか。例えばそれは「内部被ばくは問題ない」「健康に直ちに影響はない」「100mSv以下では健康影響はない」などに従って放射能汚染の中で生きる生活のこと。これが私たちが望む「生きる目的」になり得るのだろうか。

私たちの科学技術社会は、人工的な「手段」をとことん追及していった末に、もともとあった私たちの「生きる目的」がすっかり歪曲されてしまった。その結果、もともとの私たちの「生きる目的」と人工的な「手段」との間に超えがたい亀裂・分断が生まれた。
そこに生じた私たちの「生きる目的」と人工的な「手段」との亀裂・分断と向き合い、もともとあった私たちの「生きる目的」のために何が必要な「手段」なのかについて考え直し、改めて目的から手段を再構成する必要がある。それが社会の分断に橋をかける試み。そのささやかな挑戦の1つが、チェルノブイリ法日本版。

安部公房からみたら日本の未来社会=福島原発事故を起こしてしまった311後の日本社会、その社会の中で分断に橋をかける試みに挑戦すること、これ以外に私たちに何が残されているだろうか。そのささやかな挑戦の1つが、チェルノブイリ法日本版。

2024年8月25日日曜日

【検証その3】311で東日本壊滅寸前まで行ったのに、人々はなぜ福島原発事故をリアルに受け止められないのか(24.8.25)

今日の人々は、そもそもリアリティを喪失した人工社会に生きているから。
言い換えれば、バーチャルな世界の住民になってしまったから。

バーチャルな世界とは単に、外界には存在しない、ヒトの意識の中だけに存在する世界に限らない。自然には存在しない、ヒトの意識の中だけに存在するモノ、これを外界に作り出したときも、そのようなモノで構成された世界もまた、「自然には存在しなかったヒトの意識の中だけに存在する世界」という意味で、バーチャルな世界である。
つまり、外界に存在するに至ったものなら何でもリアリティがあると思うのはまちがいだ。もともと自然に存在しないモノを自然界に作り出したとしても、それは、依然、自然に存在しない、自然界とは断絶したモノである。

今日の社会は、安全安心をうたい、心地よさをうたい、お金さえあれば欲しいものが何でも手にはいる人工社会・情報化社会。
今日の社会は、自然の世界を、ヒトの脳の中で構成した設計図に従って世界を、安全安心、予測と制御可能なように人工的に作り変えたもの。
言い換えれば、その人工世界は「脳の中に住んでいる」のと変わらない。なぜなら、脳の中で予測と制御可能なように設計した図面に従って外界の世界を再構成したものだから。

そのような人工世界の極地、それが核兵器と原発。
原発もまた、ヒトの脳の中で予測と制御可能なように設計した図面に従って、放射能による発電の装置を再構成したもの。それはあくまでもヒトの脳の中で、予測と制御可能なはずだと信ずるところに従って設計したものでしかなく、その設計が自然界の「放射能による発電」のカラクリと一致する保障はどこにもない。現に、チェルノブイリでも311でも、原発(自然界のカラクリ)はヒトが設計した予測と制御に対応せず、ヒトの予測と制御を裏切って暴走した。

 この意味で、ヒトの脳の中で作られた予測と制御で設計された人工世界は、自然界のカラクリからみれば、大なり小なりリアリティに欠けていて、大なり小なりバーチャルならざるを得ない。

生まれてからこのかた、そのようなバーチャルな世界に住み続け、安全安心で、予測と制御可能なバーチャルな人工世界が日常的な世界になっている人たち(典型的には都市住民)には、自然の世界のほうがむしろ非日常的で、違和感を覚える異常な世界のように思えてくる。例えば自然界の実在であるコロナウイルスを、非日常的な異常な存在のように忌み嫌い、排除したくなる。

それと同様に、原発事故により大気中に大量拡散された放射性物質による放射能の暴走、これがもたらす未曾有の惨劇(まさに自然界の実在である)について、これと正面から向き合うのではなく、安全安心で、予測と制御可能な脳化社会に対する「異物」として、非日常的な異常な存在として徹底して忌み嫌い、排除したくなる。
だから、たとえ311で東日本壊滅寸前まで行ったことを知っても、そこから原発事故の惨劇に向き合い、受け止めるのではなく、これを非日常的な異常な存在として忌み嫌い、排除しようとする。
これが、 311で東日本壊滅寸前まで行ったのに、人々がなおも福島原発事故をリアルに受け止められない根本的な背景ではないか。

そうだとすると、人々が福島原発事故をリアルに受け止めるのは殆ど不可能なことのように思えてくる。
しかし、即断するのは早い。そこから一歩前に出ると、全く違った展開が、次の展開が可能となるのではないか。

実はそこで、今日、バーチャルの世界の住民になってしまった人々の生き方、暮し方そのものが根底から問われている。なぜなら、東日本壊滅寸前まで行った原発事故とは、脳化社会を推し進めて行った先についに行き着いた、バーチャルな世界の総決算ともいうべき出来事なのだから。
この意味で、もし人々が東日本壊滅寸前まで行った福島原発事故(※)の惨劇と向き合おうとしたら、その人は、これまでやってきた脳化社会で安住してきた生き方そのものを根底から問い直すことが迫られることになる。
これは脳化社会にとって最大の試練であると同時に、その人にとっても、おそらく人生最大の転機なのだと思う。

(※)2号機の危機は東日本壊滅のおそれ(福一吉田所長の証言)

私は本当にここだけは一番思い出したくないところです。・・・ここで本当に死んだと思ったんです。2号機はこのまま水が入らないでメルトして、完全に格納容器の圧力をぶち破って燃料が全部出ていってしまい、そうすると、その分の放射能が全部外にまき散らされる。 最悪の事故ですから。チェルノブイリ級ではなくて、チャイナシンドロームではないですけれども、ああいう状況になってしまう。・・・放射性物質が全部出て、まき散らしてしまうわけですから、我々のイメ-ジは東日本壊滅ですよ2011年8月9日吉田調書52頁)。

2024年8月24日土曜日

【検証その2】過去に、放射能が人々に受け入れられなかった事例--黒澤明「生きものの記録」--(24.8.25)

 以下は、過去に、放射能が人々に受け入れられなかった鮮やかな事例。

日本を代表する映画監督黒澤明、彼の代表作とも言える映画「七人の侍」 、上映された1954年に多くの人々から熱狂的な支持を受け、彼はこの作品で映画監督として頂点を極めたと認められた。

その自信に裏付けられて(と思う)、黒澤は翌年、ビキニ環礁の水爆実験の第五福竜丸被爆事件に触発され、原水爆の恐怖を真正面から取り上げた「生きものの記録」を製作、上映する。
しかし、一転、映画館はガラガラ、客は誰も入らず、記録的な大赤字に。

その時の黒澤の苦悩は深く、共同脚本を書いた橋本忍が彼が苦悩する様子を描いている(私と黒澤明 複眼の映像)。
黒澤は、当時、「人々は太陽を見続けることはできない」と、人々が放射能(原爆)の現実と向き合うことの困難さを語った。
そして、彼自身、それ以降、社会問題を正面から取上げた作品を作るのを止め、より芸術的な、或いは徹底して娯楽作品の世界に向う。

しかし、それから35年後、黒澤は再び、放射能の現実と向き合う映画を作る。「」(赤富士)「八月の狂詩曲」。その時、彼の脳裏にあったのは、きっと「どうやったら、
人々は太陽を見続けることはできるのか」。
その手がかりは、ひとつは「夢」。もうひとつは「時間」と「子ども」。

しかし、黒澤が放射能の現実と向き合うのに35年かかった。
どうして、そんなに時間がかかったのか?

思うに、彼は、
生きものの記録」の興行大失敗のあと、放射能(原爆)の現実から身を引いて、そこから逃げた。そして、歴史物のフィクションの作品の中で、芸術的な創造性を追求していった。そのひとつの到達点が戦乱の時代の荒廃ぶりを徹底して描いた「影武者」「」。
しかし、黒澤は、荒涼としたフィクションの世界を作り上げる中で、彼を突き動かすものは実は、現実社会の
荒涼ぶりだった。1980年代の当時の黒澤の発言には、現実社会がどんどんおかしな方向に流れて行くことに強い警戒感がストレートに出ている。
それは、養老孟司のいう「脳化社会」の行き着く先に、耐えられないほどの人工社会が出現したことに対する黒澤の苛立ちのように思える(※)。こうして、彼は現実の
「脳化社会」の荒廃を、戦乱の時代の荒廃ぶりに託して影武者」「を作ったのだ。

そして、これらの作品を作り上げてみて、彼は再び、荒廃した
「脳化社会」の現実と向き合うほかないと悟った。いったんは現実からフィクションの世界に逃避したものの、そのフィクションの世界を徹底して推し進める中で、再びノンフィクションの放射能の現実に向き合うほかないことを確信した。それに挑戦したのが」(赤富士)「八月の狂詩曲」。

誰も取り上げないが、黒澤の紆余曲折を経たこの経験は学ぶ価値がある。


(※)実際にも、黒澤は影武者」「を作る前に、1970年、ソ連に渡って「デルス・ウザーラ」を作った。なんで、もの凄い苦労をしてまで、あんな映画を作ったのか。それは、自然の野生児である、先住民族の猟師デルス・ウザーラに対する黒澤の止み難い共感、憧れが彼をしてソ連まで行かせてこの映画を作らせた。それは高度経済成長が軌道に乗り、「脳化社会」が着々と建設されていく中で、「脳化社会」が排除する「自然」を取り戻したいという黒澤の切なる渇望のなせるわざである。
この黒澤の渇望は、必ずや「脳化社会」の行き着く先の問題=科学技術の最先端の産物である核兵器、原発と向き合うことになる。
そして、この黒澤の渇望と生きるスタイルは、すべての人たちにも共通するお手本になる。

【検証その1】いま、このブックレットが人々に受け入れられないのはなぜか?(24.8.24)

理由その1
それはまず、放射能が人々に受け入れられないからだ。
そして次に、原発が人々に受け入れられないからだ。

(1)、放射能
放射能は痛くも臭いもせず、人間の五感では感じ取ることができない、超感覚的世界の存在。いわば非人間的、非日常的な存在。こんな化け物みたいな存在を、私たちはどうやって実感できるのか。この意味で、私たちが放射能を受け入れることは困難。

(2)、原発
そして、この化け物の放射能を制御する原発とは、いわば科学技術の最先端で登場する装置。つまり人間の脳が作り出した「脳化社会(※)」の最先端の極め付けの装置、超特大の化け物。
だから、放射能ばかりか原発も既に、人間の五感にとってリアリティを持ち得ない、バーチャルな世界の化け物。
その超特大の化け物が暴走したのが原発事故。
原発事故という、人間の五感にとってリアリティを持たない、こんなバーチャルな存在の暴走を人間が実感を抱いて向き合うことにどうして耐えられるだろうか。通常の人間の五感にとって耐えられるはずがない。
この意味で、私たちが原発を受け入れることは困難。

(3)、そこで、放射能や原発という、徹底して非人間的、非日常的な存在(化け物)について語るこのブックレットに人々が人間的、日常的な関心を抱くこと自体に無理があり、無理を強いることになる。


理由その2
それはまず、人々が「脳化社会」に生きているからだ。
そして次に、原発事故が「脳化社会」のゴミだからだ。

(1)、脳化社会
「脳化社会」とは安全・安心が確保され管理統制された人工社会であるとされる。

(2)、原発事故
他方、原発事故は、その管理統制された「脳化社会」の枠組みから逸脱・暴走した「手に余るおぞましい問題」=ゴミである。
その種の「手に余るおぞましい問題」に対して「脳化社会」はどういう態度を取るか。それは、これまでも首尾一貫してそうであったように、見て見ぬ振りをし、スルーして済ませるという「排除」の論理で対応しようとする。
その結果、人々は「脳化社会」に生きることに甘んじる限り、安住する限り、「手に余るおぞましい問題」である原発事故による健康影響について「排除」=見て見ぬ振りをし、スルーして済ませようとする。

(3)、そこで、原発事故による健康影響について語るこのブックレットに対し、「脳化社会」に生きる人々が見て見ぬ振りをし、スルーして済ませようとするのは当然である。

(※)「脳化社会」 養老孟司が作った造語。(以下、参考動画)
https://www.youtube.com/watch?v=BU1Pi2g6kQg


動物とちがい、言葉、お金を作り出したヒトの脳がそれまでの「自然の世界」に対して、「人工の世界」を作り出し、この世界を再構成していった。養老孟司はこれを「脳化社会」と呼ぶ。放射能の原爆、原発とは私たちの「脳化社会」が辿り着いた極限形態だと思う。
この意味で、原発事故に向き合うとは、私たちにとって「脳化社会」に生きることの意味を問い直すことであり、全ての人たちにとっての根本問題を最も鋭く、深く掘り下げることである。
ひとたび、その真理に気づいた人たちは、このブックレットが提起する問題を忘れて生きることは不可能となる。

【検証その5】ブックレットの「バカの壁」を突破する試み(その2)(24.9.8)

 2024年8月31日、東京でやったブックレットの「バカの壁」を突破する試み第1回目( 動画 などの報告は> こちら )に続いて、9月8日、水戸喜世子さんの呼びかけで大阪高槻市で、ブックレットの「バカの壁」を突破する試み第2回目をやらせてもらう機会を与えられた。 当初、5名ほどの...