チェルノブイリ法日本版が存在する意義があるしたら、それはどこにあるのだろうかーー社会の分断に橋を掛ける挑戦にあると思う。
かつて、作家の安部公房は日本の未来社会を思って、こう感じたというーーこの風景の中に自分がどこにいるだろうか?ここに自分がいる場所があるだろうか?ないんじゃないか、と(チェルノブイリ事故の翌年の1987年の安部公房と養老孟司の以下の対談動画)。
言い換えれば、人口的な都市文明・都市社会を象徴する高層建築と高速道路に対し、こう感じたーーこれ自体は(人間が生きることにとって)全部手段であって目的じゃない。その手段がここまで来たとき、(その手段が実現しようとする)目的の部分に自分はいない。そのことがとても怖い、と。
その上で、彼は日本の社会に発生している分断の亀裂(そのひとつが「目的と手段の分断」)を覗き込み、その分断に橋をかける試みに挑戦した。
今、 チェルノブイリ法日本版が存在する意義があるしたら、それは安部公房がやったこと=日本社会の分断に橋をかける試みに再挑戦することにある。
つまり、人口的な都市文明・都市社会の論理を推し進めて行った究極の姿が原爆と原発を産み出した核社会。その核社会の成れの果てが原爆投下と原発事故。
しかし、考えてみれば、これらの産物はしょせん、私たちの命と健康という「生きる目的」にとって、全部「手段」でしかない。その「手段」がここまで暴走し、化け物に姿を変えていったとき、その「手段」によって実現される私たちの「生きる目的」とはどんなものになるのか。例えばそれは「内部被ばくは問題ない」「健康に直ちに影響はない」「100mSv以下では健康影響はない」などに従って放射能汚染の中で生きる生活のこと。これが私たちが望む「生きる目的」になり得るのだろうか。
私たちの科学技術社会は、人工的な「手段」をとことん追及していった末に、もともとあった私たちの「生きる目的」がすっかり歪曲されてしまった。その結果、もともとの私たちの「生きる目的」と人工的な「手段」との間に超えがたい亀裂・分断が生まれた。
そこに生じた私たちの「生きる目的」と人工的な「手段」との亀裂・分断と向き合い、もともとあった私たちの「生きる目的」のために何が必要な「手段」なのかについて考え直し、改めて目的から手段を再構成する必要がある。それが社会の分断に橋をかける試み。そのささやかな挑戦の1つが、チェルノブイリ法日本版。
安部公房からみたら日本の未来社会=福島原発事故を起こしてしまった311後の日本社会、その社会の中で分断に橋をかける試みに挑戦すること、これ以外に私たちに何が残されているだろうか。そのささやかな挑戦の1つが、チェルノブイリ法日本版。