2024年8月24日土曜日

【検証その2】過去に、放射能が人々に受け入れられなかった事例--黒澤明「生きものの記録」--(24.8.25)

 以下は、過去に、放射能が人々に受け入れられなかった鮮やかな事例。

日本を代表する映画監督黒澤明、彼の代表作とも言える映画「七人の侍」 、上映された1954年に多くの人々から熱狂的な支持を受け、彼はこの作品で映画監督として頂点を極めたと認められた。

その自信に裏付けられて(と思う)、黒澤は翌年、ビキニ環礁の水爆実験の第五福竜丸被爆事件に触発され、原水爆の恐怖を真正面から取り上げた「生きものの記録」を製作、上映する。
しかし、一転、映画館はガラガラ、客は誰も入らず、記録的な大赤字に。

その時の黒澤の苦悩は深く、共同脚本を書いた橋本忍が彼が苦悩する様子を描いている(私と黒澤明 複眼の映像)。
黒澤は、当時、「人々は太陽を見続けることはできない」と、人々が放射能(原爆)の現実と向き合うことの困難さを語った。
そして、彼自身、それ以降、社会問題を正面から取上げた作品を作るのを止め、より芸術的な、或いは徹底して娯楽作品の世界に向う。

しかし、それから35年後、黒澤は再び、放射能の現実と向き合う映画を作る。「」(赤富士)「八月の狂詩曲」。その時、彼の脳裏にあったのは、きっと「どうやったら、
人々は太陽を見続けることはできるのか」。
その手がかりは、ひとつは「夢」。もうひとつは「時間」と「子ども」。

しかし、黒澤が放射能の現実と向き合うのに35年かかった。
どうして、そんなに時間がかかったのか?

思うに、彼は、
生きものの記録」の興行大失敗のあと、放射能(原爆)の現実から身を引いて、そこから逃げた。そして、歴史物のフィクションの作品の中で、芸術的な創造性を追求していった。そのひとつの到達点が戦乱の時代の荒廃ぶりを徹底して描いた「影武者」「」。
しかし、黒澤は、荒涼としたフィクションの世界を作り上げる中で、彼を突き動かすものは実は、現実社会の
荒涼ぶりだった。1980年代の当時の黒澤の発言には、現実社会がどんどんおかしな方向に流れて行くことに強い警戒感がストレートに出ている。
それは、養老孟司のいう「脳化社会」の行き着く先に、耐えられないほどの人工社会が出現したことに対する黒澤の苛立ちのように思える(※)。こうして、彼は現実の
「脳化社会」の荒廃を、戦乱の時代の荒廃ぶりに託して影武者」「を作ったのだ。

そして、これらの作品を作り上げてみて、彼は再び、荒廃した
「脳化社会」の現実と向き合うほかないと悟った。いったんは現実からフィクションの世界に逃避したものの、そのフィクションの世界を徹底して推し進める中で、再びノンフィクションの放射能の現実に向き合うほかないことを確信した。それに挑戦したのが」(赤富士)「八月の狂詩曲」。

誰も取り上げないが、黒澤の紆余曲折を経たこの経験は学ぶ価値がある。


(※)実際にも、黒澤は影武者」「を作る前に、1970年、ソ連に渡って「デルス・ウザーラ」を作った。なんで、もの凄い苦労をしてまで、あんな映画を作ったのか。それは、自然の野生児である、先住民族の猟師デルス・ウザーラに対する黒澤の止み難い共感、憧れが彼をしてソ連まで行かせてこの映画を作らせた。それは高度経済成長が軌道に乗り、「脳化社会」が着々と建設されていく中で、「脳化社会」が排除する「自然」を取り戻したいという黒澤の切なる渇望のなせるわざである。
この黒澤の渇望は、必ずや「脳化社会」の行き着く先の問題=科学技術の最先端の産物である核兵器、原発と向き合うことになる。
そして、この黒澤の渇望と生きるスタイルは、すべての人たちにも共通するお手本になる。

0 件のコメント:

コメントを投稿

【検証その5】ブックレットの「バカの壁」を突破する試み(その2)(24.9.8)

 2024年8月31日、東京でやったブックレットの「バカの壁」を突破する試み第1回目( 動画 などの報告は> こちら )に続いて、9月8日、水戸喜世子さんの呼びかけで大阪高槻市で、ブックレットの「バカの壁」を突破する試み第2回目をやらせてもらう機会を与えられた。 当初、5名ほどの...