以下は、一昨日の省庁意見交換の2つ目、文科省との意見交換の感想。
(原村政樹さんのfacebookより)こちらも私自身が全く準備できておらず、文科省の担当者の説明を聞いて、頭の中がもっとグジャグシャになりました。
以下、そのグジャグジャの中から見えてきた、311後の文科省の戦略についての私見です。
一言でいって、それは、
文科省は、放射性物質は「学校環境衛生基準」の適用外(つまり「法の欠缺」状態)を言い訳にして311後の学校の安全確保の課題から真っ先に逃げ出した。
子ども脱被ばく裁判の準備書面(32)(PDF>こちら)を読んで以来、私の頭の中の構造は、
環境基本法の「環境基準」&「規制基準」は、学校環境衛生基準と一心同体に繋がっている、とその連続性を大前提にしていました(その詳細は以下を参照)。
【113話】自由研究(2):311後の独裁国家体制にとって一番ありがたいのは人々が「法の穴(欠缺)」を見つけないこと(2023.8.11)
【115話】自由研究(4):311後の日本社会の人権侵害のすべては「7千倍の学校環境衛生基準問題」の中に詰め込まれている(2023.8.11)
【第134話】いかにして「欠缺の補充」を実行するかは福島関連裁判だけの主題ではない、選択的夫婦別姓など現代の最先端の裁判の主題である(24.3.9)
ところが、この日の文科省の役人の一言で、私の頭の中はグジャグジャになりました。担当者は、さらっと(というより私からみて、抜けぬけと)こう言ってのけたのです。
学校環境衛生基準はあくまでも「学校に固有の環境衛生に係る事項」だと。
つまり、
環境基本法の「環境基準」&「規制基準」と、学校環境衛生基準とは別物、無関係だ、
とその非連続性を大前提にすると表明したからです。
その結果、環境基本法が2012年6月に改正され、放射性物質がその規制対象に取り込まれたからといって、それはおれたち文科省の管轄する学校環境衛生基準には屁でもない、かすりともしない、と。
このふてぶてしいまでの自信に満ちた表明に、一見、唖然としましたが、しかし、ひとたび、眼を現実に転じれば、福島原発事故によって福島県内の学校は深刻な放射能汚染に見舞われることになったのが紛れもない現実であり、その現実から提起された課題、つまり福島県内の学校の安全をどのようにして確保するのかという現実の課題、その解決は上記のロジックによっては何一つ解決されていないのです。
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この点は、さすがにバカではない文科省も分かっていて、放射能汚染の問題は、「学校を取り巻く地域の安全基準」によってカバーするとか何とか言って、お茶を濁そうとしましたが、こここそ、彼らの最大の弱点があると思いました。
なぜなら、「学校を取り巻く地域の安全基準」って、そもそも何を指すのか?それって、結局、2012年6月以降は、放射性物質を規制対象に取り込んだ環境基本法の「環境基準」&「規制基準」でしょう。
それで、すぐ前に解説した環境省の役人の解説によれば、2012年6月改正以降も環境基本法の「環境基準」&「規制基準」は改正前と変わらない。つまり、原発事故などにより拡散された放射性物質に対する防止措置については、環境基本法の「環境基準」&「規制基準」の適用はない、つまりずっと「法の欠缺」状態のままだと。
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このロジックを前提としたら、福島原発事故によって発生した福島県内の学校の放射能汚染の問題は、「学校を取り巻く地域の安全基準」によって何一つカバーされていない。
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そこで、ここでの真の問題が提起される。
環境省の見解では、福島原発事故によって発生した福島県内の学校の放射能汚染の問題は、「学校を取り巻く地域の安全基準」によって何一つカバーされない場合、つまり福島県内の学校の放射能汚染の問題が「法の欠缺」状態のまま放置されているとき、文科省はそれはオレの管轄、責任じゃないとしてそのまま放置してそんなことが(単に道義的にではなく、法的にも)許されるのか?
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この問題は学校保健安全法がどのように定めているかどうか、というレベルの問題ではありません。なぜなら、311前に制定された学校保健安全法もまた日本には原発事故は起きない、少なくとも学校が原発事故により大気中に拡散した放射性物質により深刻な汚染は発生しないという安全神話を前提にして作られているからです。つまり、原発事故に伴う学校の安全の確保という問題は学校保健安全法が予定・想定していない「法の欠缺」に属する問題だからです。
従って、ここでの問題とは放射性物質に関する学校の安全基準について、「法の欠缺」をどう穴埋めして、その穴埋めに従って行政の政策をどう決定するかという問題です。
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その基本的な方針を示したのが、【検証6】で示したケルゼンの序列論=法段階説による、法の欠缺が発生している当該法律の上位規範に着目して「当該法律は上位規範(憲法及び条約とりわけ国際人権法)に適合するようにその欠缺が補充される必要がある」という方法で補充を実行することです。
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この「欠缺の補充」について有名なコトバが、1981年の大阪国際空港公害訴訟最高裁判決の団藤重光裁判官の次の少数意見です。
「本件のような大規模の公害訴訟には、在来の実体法ないし訴訟法の解釈運用によっては解決することの困難な多くの新しい問題が含まれている。新しい酒は新しい革袋に盛られなければならない。本来ならば、それは新しい立法的措置に待つべきものが多々あるであろう。」
しかし、諸事情によりその立法的措置が果たされない場合には、その時こそ裁判所の出番であると次の通り締めくくりました。
「法は生き物であり、社会の発展に応じて、展開して行くべき性質のものである。法が社会的適応性を失つたときは、死物と化する。法につねに活力を与えて行くのは、裁判所の使命でなければならない。」(33~34頁)
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ただし、この理はひとり司法だけに妥当するものではありません。「諸事情によりその立法的措置が果たされない場合」、行政府にも欠缺の穴埋めをして必要な行政措置を決定・実行する責任が発生する場合があります。
その端的な事例が、福島原発事故の直後の福島県内の小中学校の集団避難。この集団避難は、これを裏付ける国の法律もなければ(=法の欠缺)、国会にそれを制定する(=欠缺の補充)時間的余裕もなかった。しかし、行政(文科省)は、これに対して、子どもたちに「安全な環境で教育を受ける権利」を保障するために、行政自らが「欠缺の補充」を行い、それに基づいて集団避難の措置を決定し、実行すべきであった。福島県内の小中学校の集団避難はまさに、行政による法の欠缺の補充が最も切実に求められた事例でした。
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この意味でいうと、2011年4月19日の文科省の20mSv通知の発出は、第1に、発出それ自体が違法、違憲なのではなく、「法の欠缺」状態にある場合、その「欠缺の補充」をして政策決定することが許容される場合があることです。
しかし、第2に、文科省はその発出のやり方において重大な誤りをおかしました。なぜなら、文科省は「欠缺の補充」の本来のやり方=憲法及び条約とりわけ国際人権法に適合するようにその欠缺が補充される必要がある」という方法を実行せず(もしこれをきちんと実行したなら、集団避難の実行にも言及せざるをえなかった)、民間の団体でしかないICRPの勧告に適合するように欠缺を補充するという重大な誤りをおかしたからです。のみならず、内容的にも、ICRPの勧告には国際人権法の観点が欠如し、平常時でもなく、受忍すべきなんらのベネフィット(利益)もない事故時においても、なお被ばく者にリスク(我慢)を強いるという人権侵害を是認する勧告です。
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以上をまとめると、
文科省は、311直後に、放射性物質について「法の欠缺」状態にある福島県内の学校の安全基準について、「法の欠缺」状態を放置せずに、20mSv通知を発出するという「欠缺の補充」を踏まえた措置を取ったのだから、今後も、「法の欠缺」状態に放置せずに、ただしその時おかした「欠缺の補充」のやり方を間違えるという重大な誤りをきっぱりと正して、放射性物質に関する学校の安全環境衛生基準について、正しい「欠缺の補充」を踏まえた措置を取るべきなのです。